日本の航空機産業は
1950年(
昭和25年)に勃発した
朝鮮戦争で米軍機の修理の受注が入るようになり、
1955年(
昭和30年)4月に川崎航空機(現
川崎)と新三菱重工業(現
三菱重工業)に自衛隊向けの機体(
ロッキードT-33Aジェット練習機、
ノースアメリカンF-86F )の国内ライセンス生産が決定したことで、当時の
航空機産業の監督官庁である
通商産業省(現・
経済産業省)はその産業基盤を商品サイクルの長い
輸送機の開発生産に取り組ませることで基盤を安定させる思惑があった。加えて、利用客の増加が見込まれた国内航空の旅客機に国産機を用いることで、軍用機と民間機を共通化して開発すれば開発コストが低下すると考え、「国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の
国際収支(外貨獲得)に貢献する」との名目で国産機開発の計画が立ち上げた。世界的に国家から軍用機の開発を受注した航空機メーカーが技術を蓄積して、その技術を旅客機に転用する例が多く、開発コストを下げて価格競争力を持たせて販売するビジネスモデルを構想した。当時は
運輸省でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と行政の綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は対空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の二重行政で決着した
[中村浩美『YS-11 世界を翔た日本の翼』 2006年 祥伝社]。