平治元年(
1159年)12月の
平治の乱では、内裏占拠後の
藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。待賢門の戦いでは義朝の長男
悪源太義平とともに
平清盛の長男
重盛と戦い活躍。六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて共に
東国を目指して落ちた。京を落ちる際に、政清が預かっていた義朝の姫を(敵に捕らえられるよりは)殺すよう命じられて引きかえし、姫を涙ながらに刺し殺した
[この話は「金比羅本」等の後世に増補されたと見られる『平治物語』には出てくる話であるが、成立年代の古い古態本(「陽明本」など岩波書店「新日本古典体系」に所収)には政清が姫を預かっている話も、姫を殺害する話も一切出てこない。 ]。
途中、落ち武者狩りの苦難に遭いながら義朝主従は政清の舅である
尾張国野間内海荘の領主
長田忠致の館にたどり着く。だが忠致の裏切りにあい義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子
景致の手にかかって殺された(『
平治物語』)。享年38。『
愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。