父
許崙(ホ・ユン、)と母一直孫氏の間に
庶子として生まれた。出生地は諸説あって定かではない。父と祖父の許?(ホ・ゴン、)はともに武官であった。
宣祖の時、医科を受験して内医院に入り(雑科を受験せず推薦で内医院に入ったとする説もある)、王室の病気治療で功を立てた。
1592年、
壬辰倭乱(文禄の役)が勃発すると、御医(王の主治医)として義川にいたる逃避行に追従し、
1604年、忠勤貞亮
扈聖功臣3等の論功を受け、
1606年には、
陽平君に封じられた。
1608年、
宣祖の死の責任を取り、流刑に処されたが、翌年には
光海君によって呼び戻された。
1610年には、朝鮮第一の医書として名高い『
東医宝鑑』を完成させている。