また、11代将軍・
足利義澄が
参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、
管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など
[今谷明『戦国大名と天皇』(講談社学術文庫)]、主要な献金元である幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、
室町幕府や
本願寺実如の献金をあわせることで、即位22年目の
大永元年(
1521年)
3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍
足利義稙(10代将軍の再任)が
管領細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行(『
二水記』永正10年3月8日・20日条)して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と
足利義晴擁立に同意を与えることとなった
[水野智之『室町時代公武関係の研究』(吉川弘文館、2005年) ISBN 978-4-642-02847-9 P246-249]。