和歌に通じていた重信は、母の五十回忌に、「受けよ母 五十路の霜にかれやらて 残るかひ有りこの手向草」と読んでいる。ちなみに、母は
盛岡にいる重信には一度も会いに行かなかったといわれている。母の松は地頭であった花輪内膳の娘ではなく、
新里刈屋の
平家の落人の娘だった。重信の生まれる前年、
三陸に大きな
津波が襲来し大きな被害のつめ跡を残す。利直は被害状況の視察の為に
宮古に滞在した。容姿端麗だった松は利直公の見辺の世話をするため、花輪内膳の娘と偽った。
南部家は
源氏。
盛岡城に迎えられたとはいえ、七戸城主になるまでの重信は部屋住みという低い身分だった。「重信は兄弟が多く、母親が平家では、我が子の将来に不利な影響を及ぼすと考え、会いに行かなかった」と、地元に言い伝えられている。