公用文作成の要領は、4月4日付け内閣閣甲第16号各省庁次官宛内閣官房長官依命通知として作成され、全官庁に対して発出された通達である(以降では
本通達と呼ぶ)。初めは、
10月30日付け文調国第369号「公用文改善の趣旨徹底について」の別冊2として作成された
[別冊1は「公用文の改善についての調査の結果」。]。昭和20年代に行われたさまざまな
国語改革政策の一環として、また
政治・
行政の
民主化の一環として、さまざまな
公文書を「官庁自身や一部の専門家のためのもの」から「広く国民全般のためのもの」に改めることを目的としていた。
日本では
中国から
律令制をとりいれて以来、
律令を代表とする法令や
六国史を代表とする
国史などの国が作る正式な文書で使用する文字は
真名(漢字)であるとされてきた
[佐藤喜代治「文体史」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 347-349。 ISBN 978-4490101331 ][佐藤武義「漢文」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 354-355。 ISBN 978-4490101331 ][西宮一民「上代の文体」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 349-350。 ISBN 978-4490101331 ]。
平安時代に成立したかな文字はあくまで女子供の使う文字であり、漢字とともにかな文字が使用される漢字かな交じり文はあくまで私的な場面や非公式の場面でのみ使うべきものであって正式な場面で使うべきものではないとされてきた
[佐藤武義「中古の文体」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 350-351。 ISBN 978-4490101331 ]。但しこれらの日本の公式文書で使われていた漢文には中国で使われていた正式な漢文と比べると若干異なる日本独自の習慣も存在する(これらは和臭、和習、倭臭、倭習などと呼ばれ、すでに
日本書紀などにも見ることができる
[森博達『日本書紀の謎を解く-述作者は誰か』(中公新書、)ISBN 4-12-101502-9 ])ことから、変体漢文、記録体、疑似漢文・国風漢文・漢文体等と呼ばれることもあった
[佐藤武義「記録体(変体漢文)」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 355-356。 ISBN 978-4490101331 ]。
中世(
鎌倉時代から
戦国時代)に入ると、律令体制が崩れていったことなどに伴い漢文の修養を十分に受けることができなかった者が法令を書くことがあったり、一般庶民に周知されることを重視した御触書などの一部の法令には漢字仮名交じり文が使用されるなど若干崩れてきた面はあった
[遠藤好英「中世の文体」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 351-352。 ISBN 978-4490101331 ]。近世(江戸時代)に入ると
儒学(
朱子学)を代表とする漢文を重要視する学問の隆盛に伴って、再び法令をはじめとする正式な公用の文章はあくまで漢文であるとされてきた
[飛田良文「近世の文体」国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版、1月、pp. 352-354。 ISBN 978-4490101331 ]。
明治新政府により法制度の中身が中国に由来する律令制から西洋に由来する近代法制に大きく変わたのに伴い、法令の表記も漢文から漢字かな交じり文に大きく変わっていった
[山口仲美「公用文を漢字カナ交じり文で書く」『日本語の歴史』岩波新書(新赤版)1018、岩波書店、2006年5月19日、pp. 177-179。 ISBN 4-00-431018-0 ]。この改革は、明治政府の中枢に漢文の十分な教育を受ける機会の無かった
薩摩や
長州の下層階級の
武士達が数多く入ってきたことと関連しているとされることもあるが、
前島密などによって、幕末から明治にかけて唱えられた国語改革も公用文の改革を主要な対象として考えていたと見られ、明治政府の行った法令文の表記改革もそれらの影響をおけているとする見解もある
[大野晋「国語改革の歴史(戦前)」丸谷才一編『国語改革を批判する』日本語の世界16、中央公論新社、5月、のち中公文庫、10月、pp. 13-108。 ISBN 4-12-203505-8 ]。ところが、江戸時代から明治時代にかけては社会の変化、さらには言文一致運動などの影響もあって、一般社会で通常使用される日本語がどんどん変わっていくことになった。そのために、漢文からは大きく変わった漢文訓読体と呼ばれる当時の公用文の文体も、知識階級の人々によって書き言葉としては一般社会でもそれなりに使われてはいたものの、当時の一般の人々が日常使う話し言葉や書き言葉と比べると、漢文臭の非常に強い読みにくいものであった。そのため、法令や公用文の文体をさらに分かりやすいものに改めて行かなければならないとする動きは何度か起こっていた。現行民法典の起草者の1人であり「日本
民法の父」と称された
穂積陳重は、その著書『法典論』の中で、法典の文体について、おそらくは当時としては主流であったと考えられる「教養の無い一般大衆が容易に理解できるようなやさしい文体の法令は、法令としての威厳を損なうものである。」といった考え方を批判する形で近代的な
法治主義と関連付けて「法典の文体は専門家だけが理解できるものであってはならず、一般大衆が理解できるものでなければならない」という主張を展開している
[穂積陳重「法典の文体」『法典論』新青出版、初版3月3日、復刻版7月10日、pp. 183-191。 ISBN 978-4-915995-72-9 ]。
戦前にさまざまに検討された漢字制限論も歴史や伝統を重んじる保守的傾向の人々からの抵抗が強かったが、公用文を対象にする場合にはさらに、
天皇や
皇室に関連する言葉の言い換えが重要な問題になった。これらの言葉を別の漢字や仮名に言い換えることについての抵抗が強く、中でも「不磨の大典」とされた大日本帝国憲法で使われている言葉・漢字や「
教育勅語」や「
軍人勅諭」といった「天皇のお言葉」の中で使われている言葉や漢字について正式に改正することなく臣民である自分たちが勝手に別の言葉や漢字に言い換えることなど制度的に出来ないとする主張を覆すことは困難であった
[小泉保「教育勅語と常用漢字」『日本における文字政策の歴史』言語、Vol.20、No.3(3月号)、大修館書店、pp. 41-42。]。そのため紆余曲折の上成立した当時の漢字制限のための漢字表には皇室関係の用語に使用される漢字などが一般生活での使用頻度とは関係なく入ることになり、それらの漢字表をもとに戦後になって限られた時間の中で改めて作成された当用漢字表にも天皇の
自称である「
朕」といった字が入っているなど、その影響が残っており、さらには当用漢字表を改正する形で制定された常用漢字表にもその影響が一部に残っている。