卒業後まもなく
第一次世界大戦が始まるが、この時期は会社の統計係やパブリックスクールの教職などをしながら、遺伝学と統計学の研究を続けた。この時期に彼は論文
The Correlation to be Expected Between Relatives on the Supposition of Mendalian Inheritance(メンデル遺伝を仮定した場合に血縁者間に期待される相関)を書いたが、この論文は連続変数的遺伝が
メンデルの法則と両立することを示すものであるとともに、当時すでに
カール・ピアソンらによって用いられていた
相関分析の方法に、
分散分析という非常に重要な方法を導入するものでもあった。
1917年にはアイリーン・ギネスと結婚し、その後8人もの子をもうけた(自らの家庭生活に関しても優生学的な考察を行ったといわれている)。
終戦とともに新しい職探しを始め、ピアソンに招かれたものの、ピアソンに反感を抱いてこれを断り、
1919年、
ハートフォードシャー州のロザムステッド農事試験場(Rothamsted Experimental Station)の統計研究員に就職した。ピアソンや息子の
エゴン・ピアソンらとは、のちに統計学に関して大論争を起こすことになる。
ここでは大量のデータに関する研究を行い、結果は
Studies in Crop Variation(穀物量の変動に関する研究)という一連の報告となった。その後数年間が彼の全盛期であり、
実験計画法、分散分析、小標本の統計理論といった革新的な業績を生み出す。実際的なデータの研究から始まって新しい統計学理論へと進むのが彼の仕事の特徴であった。
1925年にこの仕事は彼の最初の成書
Statistical Methods for Research Workers(研究者のための統計学的方法)として実を結ぶ。これはその後長きにわたり様々な分野の研究者のスタンダードとなった。
1935年には
The Design of Experiments(実験計画法)を出版しこれもスタンダードとなる。