ピョートル大帝没後、科学アカデミーは円滑に進まなかった。ピョートル大帝の娘、
エリザヴェータ女帝は、寵臣で最後の
ウクライナの
ヘトマンであった
キリル・ラズモフスキー伯爵を科学アカデミー総裁に任命する。総裁職(プレジデント)は、次第に名誉職と化し、総裁と別に院長(ディレクトール)が責任者として設置される。
エカテリーナ2世は、
1783年1月24日科学アカデミー院長に
エカテリーナ・ダーシュコワ公爵夫人を任命する。啓蒙主義者でもあったダーシュコワは、院長として辣腕を振るい、科学アカデミーの再建に着手し、財政再建と出版活動の活性化に力を注ぐ。ダーシュコワは、オイラーの論文集、
教科書、
地図、
ロモノーソフ全集を出版し、出版活動は成功し約16万ルーブルの黒字を生み出す。その他、幾何学、力学、化学、地理学、博物学の公開講座を開催し、下級貴族や下士官を中心とする各層に門戸を開いた。さらに、エカテリーナ2世にロシア語研究の必要性を言上し、同意を得た上で、
ロシア・アカデミーの創設と科学アカデミー院長のまま、ロシア・アカデミー総裁に就任する。
1793年ロシア・アカデミー辞典(全6巻)の完成という形で成果を見た。
1925年7月には、ソ連政府は、ロシア科学アカデミーを最高学術機関と承認し、名称をソ連科学アカデミーと改称した。
1933年教育人民委員部(
文部省に当たる)から
人民委員会議(
内閣)の直属機関に移管される。翌
1934年には、
モスクワ遷都に伴い
レニングラードからモスクワに所在を移した。
1936年ソ連科学アカデミーは、共産主義アカデミーと合同し、従来の
自然科学部門に、
社会科学部門の研究分野、機関をその対象に加えるに至った。更に人民委員会議が
ソ連閣僚会議に改組されると、ソ連科学アカデミーは閣僚会議の直属機関となった。ソ連科学アカデミーは、ロシア共和国を除く、14のソ連構成共和国の国立科学アカデミーを設立し、科学者の生活と研究を支援した。各共和国の科学アカデミーは以下の通り。