紀元前435年、
ギリシア北西部の都市国家
ケルキュラの
植民市エピダムノスの支配を巡り、コルキュラとペロポネソス同盟の有力な都市国家
コリントスとの党争が勃発した。コリントスの侵略を恐れたケルキュラはアテナイに保護を求め、
紀元前432年にこれにアテナイが応じて援軍を送り込み戦闘となった(
シュボタの海戦)。また、翌年にギリシア北部の都市国家
ポテイダイアが
デロス同盟からの脱退とペロポネソス同盟による保護と同盟への加盟を求めたことに関して、アテナイとコリントスの両都市がそれぞれ軍を派遣し衝突した。これらの事件により、アテナイはコリントスと対立することになる。
紀元前432年、ペロポネソス同盟会議はアテナイとの開戦を決議し、翌年5月、
スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍による
アッティカ侵攻が開始された。対するアテナイはペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイと
ペイラエウス港及び両者を繋ぐ二重城壁の内側へ退避させる篭城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取った。ところが人口が急激に増加した市内に疫病が発生し、紀元前429年までに市民の約3分の1が病死し、ペリクレスも病死した。
しかし海上におけるアテナイ軍の優位は変わらず、
紀元前425年の
スファクテリアの戦いにおいて従来決して降伏しないとされていたスパルタ市民兵120人を含む292人を捕虜とする勝利を収めるなどしていた。このことからペロポネソス同盟軍側は停戦を申し入れたが、ペリクレス死後、好戦的な
デマゴーグなどの指導者しかいなかったアテナイはこの申し出を拒否し、徹底抗戦の構えをとった。しかし戦局は次第にスパルタ側へ傾き始め、スパルタ軍が
ボイオティアや
トラキアにおいて勝利を収める。ところが、紀元前422年にアテナイの好戦的指導者
クレオン、同じく主戦派のスパルタの将軍
ブラシダスがトラキアの
アンフィポリスの戦いで共に戦死したため、和平を望むアテナイの将軍
ニキアス、同じく和平を望むスパルタ王
プレイストアナクス主導の下で翌紀元前421年にアテナイ、スパルタ間で和平が成立した(ニキアスの和約)。