両シチリア王国のフラッタマッジョーレ出身。幼くして
ナポリのイエス・キリスト貧民音楽学校(
Conservatorio dei poveri di Ges? Cristo)に入学し、ガエターノ・グレコの指導を受ける。後にサントノフリオ音楽院で
アレッサンドロ・スカルラッティに師事。
ローマで
ベルナルド・パスクィーニやジュゼッペ・オッターヴォ・ピトーニにも師事したと推測されているが、その証拠文書は存在しない。
1725年にサントノフリオ音楽院においてスカルラッティの後任教授として
1742年まで留任し、その後
ニコラ・アントニオ・ポルポラの後任院長として、やはりナポリの、サンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院に転出した。ナポリで没するまでこの職務にあたっている。
ドゥランテが舞台音楽を作曲しなかったというのは事実だが、そのために宗教音楽の大家として過大評価される結果となった。バロック音楽とその時代様式の
教会音楽の作曲家の中で、ドゥランテが最上の一人であったのは間違いないが、
レオナルド・レーオやアレッサンドロ・スカルラッティに比べれば見劣りするというのがこんにちの評価であり、イタリアの教会音楽に感傷趣味の流派を打ち立てたように見なされている。感傷的な作風は、ドゥランテの人柄の反映でもあった。つまり、知的で教養深いわけではないが、真面目で熱烈という性格である。
ヨハン・アドルフ・ハッセは、ドゥランテの「イタリア随一の
和声の大家」という評価に異議を唱えて、アレッサンドロ・スカルラッティこそそれにふさわしいと訴えた。