ピエール・ファーブルは
サヴォイア公国(現在のフランス)領内のグラン・ボルナンド渓谷にある
ヴィリャール村(Villaret)に生まれた。父ルイ・ファーブル、母マリー・ペリシャンは山間の村で暮らす普通の農民だった。幼いころから羊飼いの仕事をしながらもファーブルの聡明さは際立っていた。村には満足な教育機関がなかったため、両親は10歳のファーブルを初め近隣の
トーンズ(Th?nes)の町に送って勉強させ、次にラ・ロッシュ(La Roche-sur-Foron)の町で学ばせた。ここで彼は生涯の親友となる
クロード・ジェ(Claude Jay)と知り合った。勉学を続ける中でファーブルは司祭職への召命を感じ、19歳で
パリ大学で学ぶべく故郷を離れた。パリ大学は当時から多くのカレッジの集合体であったが、ファーブルはその一つでポルトガル系の学生の多かった
聖バルバラ学院に学んだ。ここでファーブルとたまたま同室になった学生が、後にイエズス会創設に共に立ち会う
フランシスコ・ザビエルであった。
1534年5月、ファーブルはパリ司教の手で叙階され、司祭となった。このとき、ファーブルはロヨラを囲む学生たちのグループの中での唯一の司祭であった。1534年
8月15日、グループの七名は
モンマルトルの丘に登り、サン・ドニ記念聖堂でファーブルのたてるミサにあずかって、神に自分の生涯をささげる誓いを立てた。世に言う「モンマルトルの誓い」である。ファーブルの学友だったクロード・ジェもこの年、パリにやってきてロヨラのグループに加わっている。
1537年、一同は
ヴェネツィアに集まった。ファーブルらは
ローマへ向かい、教皇
パウルス3世との知遇を得た。教皇は一同の学識と志の高さに感激し、彼らが求めていた仲間の叙階と聖地巡礼の許可を与えた。こうしてヴェネツィアで一番年少だったサルメロン以外のメンバーたちが司祭叙階を受けた。一同はイタリアでさまざまな使徒職に従事しながら、自分たちのグループの将来について語り合い、修道会という形をとることに決めた。
1539年、ロヨラは教皇に『基本精神綱要』を提出し、修道会の許可を願った。審査を経て1540年9月27日、イエズス会は聖座の認可を受けた修道会として認可された。イエズス会の誕生である。その後、政治情勢から聖地エルサレムへの渡航の困難に気づいた一同は教皇の勧めもあってヨーロッパにおける宣教活動を行うことにし、各地で活動した。ファーブルは教皇とロヨラの指示に従ってドイツ、フランス、ベルギー、スペイン、ポルトガルとヨーロッパ各地を回り、
宗教改革の嵐が吹き荒れる中で、プロテスタントとカトリックの対話やカトリック教会の霊的再建という困難な仕事に精力を傾けた。さらに1537年以降、ファーブルは教皇庁立大学で教壇に立っていた。ヨーロッパ各地でファーブルの薫陶を受けた多くの若者がイエズス会に加わった。その中でもっとも有名なのはオランダ出身の
ペトルス・カニシウスとスペインの名門貴族出身の
フランシスコ・ボルハの両名であった。