即位後は父のように西洋のような異教徒の文明を導入することを嫌って、これを取りやめ、独自の文化によるイスラム系の大学の創設や寺院の建立。父の時代に拡大した領土の基盤固めを行なった。
バヤズィト2世は「聖者(ヴェリー)」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであり、福祉事業にも熱心で、他宗教にも寛容であった。しかし、優柔不断な性格から政治家としては三流で、臣下からの人望も乏しかった。このため、「
イランの
サファヴィー朝から干渉を受けて、国内に混乱が広がった」と言われている。そして、このような父の統治に不満を持った息子・
セリム1世(冷酷王)により、1512年に帝位を廃されて幽閉されてしまった。そして、同年のうちに死去している。
死因は「失意からの病死」と言われているが、セリム1世がバヤズィト2世廃位と同時に多くの反抗的な親族を殺害していることから、「セリム1世に毒殺されたのではないか」と言う説もある。