1932年に
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党。すぐさま党の幹部となり、ナチス党の政権掌握後には総統官邸長官(Chef der Reichskanzlei)、
国務長官(Staatssekret?r)の職責が与えられた
[Hans Heinz Sadila-Mantau, German political profiles, Terramare Publications, Berlin, 1938]。また1933年9月29日には
親衛隊(SS)の
名誉指導者ともなり、
親衛隊上級大佐(SS-Oberf?hrers)の階級が与えられた。親衛隊の階級は1935年4月20日に
親衛隊少将(SS-Brigadef?hrer)、1938年1月30日に
親衛隊中将(SS-Gruppenf?hrer)、1940年4月20日に
親衛隊大将(SS-Obergruppenf?hrer)と昇進している 。1937年からヒトラー内閣の無任所大臣にもなり、国家防衛大臣審議会のメンバーとなった。彼はこうした立場に基づき、全ドイツの政府機構から連絡と諮問を受けていた。またすべての政治文書を総統ヒトラーの前に届く前に検閲することができた。1943年1月からはヒトラー不在の閣議においてはラマースがヒトラーを代理することと定められた。
大戦末期の1945年4月にゲーリングの「反逆」に関与したとされて逮捕された。ボルマンの陰謀であった可能性がある。いずれにしてもアドルフ・ヒトラーはラマースの銃殺に反対したため、命は助かった。しかし彼の妻と娘はこの拘束の最中に自殺している
[[外部リンク] NNDB]。敗戦後の1946年4月に
ニュルンベルク裁判の証人として召集された。1949年4月には彼自身も
ニュルンベルク継続裁判の1つ「
大臣裁判」にかけられた。20年の懲役刑判決を受けたが、後に10年に短縮された。さらに恩赦されて1952年には釈放された。1962年に
デュッセルドルフで死去。