クレモナが最初に歴史に登場するのは、紀元前4世紀頃ポー川谷にたどりついた
ガリア=
ケルト系のケノマニ人の定住地としてである。しかし、クレモナの名がおそらくより古い定住者の時代に遡る。クレモナの由来は多くの風変わりな解釈が与えられていて、古代に関する研究を混乱させた。現代の学者らは、
ロシアの
クレムリン(kremlin)に含まれるクレム(krem)につながりがあるとみている。クレムリンは『高い地面』を表しているので、周りは湿地であったことになる。紀元前218年、
古代ローマがポー川の北にあるその場所に初の軍事的前哨地点を築いた()ので、その古い名が残った。クレモナと近郊のプラセンティア(現在の
ピアチェンツァ、ポー川南岸)は同じ年につくられた。ローマ属州
ガリア・キサルピナとなるのを見越していたことが基礎にあった。クレモナは急速に北イタリア最大の町の一つとなり、
ジェノヴァから
アクイレイアを通る
ポストゥミア街道が主要道であった。それは
ユリウス・カエサルへ軍を供給し、彼の支配から利を得た。しかし、のちにクレモナは
アウグストゥスと対立する
マルクス・ユニウス・ブルートゥスと
元老院を支援した。彼らは紀元前40年にもクレモナの土地を没収し、自分の部下らに再配分した。著名な詩人
ウェルギリウスはクレモナで学校教育を受け、父祖の土地を没収されてしまっていたが、後にこの時割譲した土地は返還された。市の繁栄は紀元69年まで続いた。2度目の
ベドリアクムの戦いで
ウェスパシアヌス軍によってクレモナは破壊された。ウェスパシアヌスは対抗する
ウィテリウスに対して皇帝となろうとして戦っていた。クレモナはウェスパシアヌスの支援を受けて再建されたが、かつての繁栄を取り戻すのに失敗し、6世紀まで歴史から姿を消した。
ゴート戦争()の最中、
東ローマ帝国の軍事的要所として再浮上することになる。
ロンゴバルド族がイタリアを6世紀半ばに征服した時、クレモナは
ラヴェンナ総督領の一部として
東ローマ帝国の要所のままであった。市は北西に向かって拡大し、城塞の外側に大規模に堀のつくられた駐屯地が生まれた。603年、ロンゴバルド王アギルルフによってクレモナは征服され、再度破壊された。クレモナは、
ブレーシャと
ベルガモの2つの公国によって分割された。しかし615年、臣民をキリスト教に改宗させる意図を持つ敬虔な
カトリック教徒である、ロンゴバルド王妃テオデリンダは、クレモナを再建し、再度司教を据えた。市の管理権は次第に司教のものとなった。
カール大帝のイタリア征服後、クレモナ司教は
神聖ローマ帝国の臣下となった。このことから、クレモナは権力を増大させ、その繁栄は揺るぎないものとなり、クレモナ司教の幾人かは10世紀から11世紀にかけ重要な役割を担った。司教リウトプラント()は
ザクセン朝時代の宮廷の一員であり、司教オルデリックは皇帝
オットー3世 からクレモナの強力な特権を獲得した。クレモナ経済は、古い東ローマ帝国の要塞外に川港がつくられたことで、さらに沸騰した。