プトレマイオス朝では、権力を巡る骨肉の争いが常態化していた。事実、
紀元前55年(クレオパトラ14歳のとき)、父(プトレマイオス12世)とクレオパトラの姉(
ベレニケ4世)は王位を巡って争い、ローマの支援を得て勝利し、ベレニケを処刑した。このようにエジプト国内は安定しているとはいえない状況下に置かれていた。
弟王との共同統治は弟王の側近の介入もあって当初よりうまくいかず、ローマの介入を招く余地があった。ローマでは、
カエサルと
ポンペイウスが対立していたが、クレオパトラは父王の関係から、ポンペイウス派に与していた。ポンペイウスの子
グナエウス・ポンペイウスがアレクサンドリアを訪れ、クレオパトラに兵員と食料の協力を要請したとき、女王は、この
小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員及び食料を提供した。この際、クレオパトラは
小ポンペイウスの愛人となった
[プルタルコス「英雄伝」アントニウス伝]。
紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためにエジプト入りしたカエサルは、和解を図ろうとして、両共同統治者をアレクサンドリアに招集した。当時、クレオパトラ7世はエジプト東部のペルシオンでプトレマイオス13世派と戦闘しており、アレクサンドリアへ出頭するのは容易でなかった。
プルタルコスによると、女王は自らを寝具袋にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせ、王宮へ入ることに成功したといわれている(絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多いが、歴史史料では確認できない)。このとき、クレオパトラ7世はカエサルを魅了し、彼の愛人となった。これを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。一応、カエサルは両共同統治者の和解させるのに成功したとはいえ、この和解は15日間しか続かなかった。
ディオ・カッシウスによると、プトレマイオス13世側がカエサル軍を攻撃したので、カエサルはそのときちょうどエジプトへ到来したローマ軍を使って、紀元前47年の
ナイルの戦いでプトレマイオス派を制圧し、プトレマイオス13世を
ナイル川に溺死させた。プトレマイオス13世と結託し、クレオパトラ7世と敵対していた
アルシノエ4世は、捕らえられ、ローマへ送られた。
紀元前46年、ローマで催されたカエサルの凱旋式で、アルシノエは引き回された。このアルシノエは、
紀元前41年、クレオパトラの意向を受けたアントニウスの手下によって殺害されたといわれている
[フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』15巻]。