[Wayne E. Franits. Dutch Seventeenth-Century Genre Painting: Its Stylistic and Thematic Evolution, Yale University Press, 2004] 。アーネムで、彼はTullekensという名の医師の養子となった。最初、彼は後見人の職業を継ぐことと決められていたが、彼の絵画の非凡な才能が見抜かれ、地元の画家ヘンドリック・コステルの元で学んだ。1654年には、養い親Tullekensの紹介で、
デーフェンター(現在の
オーファーアイセル州の都市)にいる画家
ヘラルト・テル・ボルフの門弟となった。彼はテル・ボルフの門弟の中で最も才能に恵まれており、おそらく師の助手を務める一方で、テル・ボルフの作品にモデルとしてたびたび登場している。
1658年、ネッチェルは修行のために
イタリアへ発った。しかし、彼は
ボルドーよりさらに南へ行かなかった。1659年秋、彼はマルグリット(オランダ語名マルハレタ)という地元の女性と結婚したのである。彼は絵を描くことで生計をたてるために骨を折って働いた。この当時に描かれた小さな私室用絵画は、今や非常に美しい仕上がりを理由に高値が付けられている。
プロテスタントの告発を受けたことから1662年
ハーグへ引っ越した後、彼は肖像画家に転向した。彼の芸術の一分野である肖像画がさらに成功した。彼は同業の画家、
フランス・ファン・ミーリス、
ヘラルト・ドウと知り合ったらしい。また、ハーグ出身の画家
ヘリット・デ・ホーホとも交流があったとされる。1676年に生まれたホーホの娘マルハリタは、ネッチェルの妻の名前にちなんで名付けられ、洗礼にも立ち会っている。ネッチェルは
オラニエ公から
イングランド王となった
ウィリアム3世に援助され、彼の稼ぎは、音楽を描いた作品、保護された作品で、彼自身の嗜好を満たすことがすぐに可能になった。
ネッチェルの天才的な作品群は多くが展示されている。主題に選ばれているのは、テル・ボルフ作品をまねした、光沢のあるサテンのドレスを身につけた女性像である。彼女たちは繊細な下絵、輝かんばかりの正しい彩色、そして心地いい陰影の中に描かれている。しかししばしば作品の上品さは弱点に転じる。ネッチェルは1684年に早死にするまでに、名誉と富の両方を得た。彼の息子コンスタンティン(1668年-1722年)とテオドルス(1661年-1732年)は父親の画風を継いだ画家となったが、価値は劣る。